フローレンス・ナイチンゲール の生涯・人生・功績

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フローレンス・ナイチンゲール

フローレンス・ナイチンゲールは、1820年5月12、イタリアのフィレンツェで生まれました。クリミア戦争中、フローレンス・ナイチンゲールと看護婦団のはたらきにより、イギリス軍兵舎病院の劣悪な衛生状態が改善され、死亡者数が3分の2減少しました。ナイチンゲールが執筆した書籍は、世界中で医療衛生改革の火付け役となりました。1860年には、聖トーマス病院およびナイチンゲール看護学校が創立されました。フローレンス・ナイチンゲールは、1910年8月13日、ロンドンにて死去しました。

幼少期

フローレンス・ナイチンゲールは、1820年5月12日、イタリアのフェレンツェで生まれました。2人姉妹の妹でした。ナイチンゲール一家は、イギリスの裕福層の家庭で、上流階級の社交界の一員でした。母親のフランシズ・ナイチンゲールは商家の出身であり、上級階級の著名人らとのつきあいを自慢に思っていました。母親の社会的な上昇志向とは裏腹に、フローレンス自身は、人づきあいが不器用であったといわれています。できるかぎり、人々の注目の的にならないようにすることを好みました。頑固なフローレンスは、過剰に干渉しようとする母親と衝突することもよくありました。しかしながら、多くの娘がそうであるように、ナイチンゲールも母親を喜ばせることに熱心でした。母娘関係に関してフローレンスは、「私がもっと気立てが良くて、母の意向に添う性格だったらよかったのにと思います。」と弁明しています。

フローレンスの父親のウィリアム・ショア・ナイチンゲールは、裕福な土地所有者で、ダービーシャーのリーハーストとハンプシャーのエンブリー・パークのふたつの土地を、フローレンスが5歳のときに相続しました。フローレンスは、リーハーストの一家の私有地にて育てられ、そこで父親から、ドイツ語、フランス語、イタリア語をはじめとする古典教育を受けました。

きわめて幼い頃から、フローレンス・ナイチンゲールは、一家の私有地からほど近い村で、病気や貧困に苦しむ人々を助ける慈善活動に積極的でした。16歳になる頃には、看護こそが自分にとっての天職であると確信していました。フローレンス・ナイチンゲールは、看護という仕事が自分に与えられた使命であると信じていたのです。

フローレンス・ナイチンゲールが、両親のもとへ行き、看護婦になりたいという意思を打ち明けたとき、両親は喜びませんでした。実際のところ、二人はナイチンゲールが看護婦になる道を歩むことを禁じたのです。ヴィクトリア時代、ナイチンゲールのような社会的階級にある若い女性は、裕福な男性と結婚することを期待されていました。上流階級の人々から地位の低い下働きのようにみなされていた職業に就くものではないと考えられていたのです。

17歳のとき、ナイチンゲールは、「身分相応の」紳士、リチャード・モンクトン・ミルンズからの求婚を断りました。ナイチンゲールは、求婚を断った理由として、リチャードが知的で恋愛相手として魅力的であった一方、「道徳心あふれる性格が満たされなければならなかったのです。そしてそれはリチャードとの生活では得ることができないものでした。」と語っています。両親の反対にもかかわらず、自らの真の使命を果たす道を選ぶことを決意したナイチンゲールは、1844年、ドイツ、カイザースヴェルトのLutheran Hospital of Pastor Fliedner(フリードナー牧師のルーテル病院)に併設された看護師養成所に入学しました。

ナイチンゲールのキャリア

1850年代はじめ、ナイチンゲールはロンドンに戻り、病を患うガヴァネスのための看護婦としてミドルセックス病院に就職しました。そこでのナイチンゲールのはたらきぶりに感銘を受け、雇い入れからわずか一年もたたないうちに、雇用主がナイチンゲールを看護婦長に昇格させました。ナイチンゲールは、コレラの発生や、コレラが急速に広まる要因となっている不衛生な院内環境に対処しなければならず、この責任者としての仕事は、大変なものでした。ナイチンゲールは、衛生状態を改善することを自らの使命とし、その過程でミドルセックス病院における死亡率は著しく低下しました。過労により、ナイチンゲール自身の健康状態にも悪影響が及びました。ナイチンゲールは、看護婦としてのキャリアにおいて最大の危機にあって、かろうじて回復を遂げました。

1853年10月、クリミア戦争が勃発しました。大英帝国は、オスマン帝国の覇権をめぐりロシア帝国と戦争状態になりました。何千人ものイギリス軍兵士が黒海へ派遣され、そこでは供給物資が急激になくなっていきました。1854年までに、1万8千人もの兵士が兵舎病院に入院していました。

当時、クリミアの病院に常駐している女性の看護師はひとりもいませんでした。過去の女性看護師の評判が良くなかったため、戦争省が新たな女性看護師の採用を控えていたのです。しかし、アルマの戦いの後、イギリス国内では、病気や負傷したイギリス軍兵士たちに対する扱いの悪さに不満の声があがっていました。病院では医療従事者がきわめて不足していたため、兵士は十分な治療を受けられないだけでなく、劣悪な衛生状態と非人道的な状況下に置かれ、衰弱していました。

1854年後半、ナイチンゲールは、戦時大臣シドニー・ハーバートから、クリミアで病気になったり負傷したりした兵士を世話する看護婦団を結成してほしいとの依頼を手紙で受けました。ナイチンゲールは、自らの使命のために立ち上がりました。ナイチンゲールはすぐさま、さまざまな修道女会から34名の看護婦を集め、わずか数日後には、クリミアへ向けて、看護師団と共に出航しました。

出発前に現地の悲惨な状況については知らされていたものの、コンスタンティノープルのイギリス軍兵舎病院があるスクタリに到着したナイチンゲールと看護婦団の一行は、そこで目にした惨状に衝撃を受けました。病院は大きな汚水槽の上部に位置し、水や病院の建物それ自体も汚染されていました。患者は、廊下に散乱する担架の上に、自らの排泄物にまみれた状態で寝かされていました。ネズミや虫の類が患者のそばを動き回り通りすぎていきました。包帯や石鹸など、最も基本となる物資は、病気に罹ったり負傷したりした兵士の数が徐々に増加するなか、ますます不足していきました。水でさえも、配給される必要がありました。多くの兵士が、戦場で負った傷のためではなく、腸チフスやコレラなどの感染症が原因で亡くなっていきました。

現実的なナイチンゲールは、さっそく仕事にとりかかりました。ナイチンゲールは何百本もの清掃用ブラシを調達し、最も症状が軽い患者らに、院内の床から天井まで、掃除してくれるよう依頼しました。ナイチンゲール自身は、起きている時間はすべて兵士の看護に充てました。夜間になると、ナイチンゲールはランプを手に暗い廊下を見回りのため歩きまわり、次から次へと患者の世話をしてまわりました。ナイチンゲールの尽きることのない深い思いやりに感動し、癒された兵士たちは、ナイチンゲールを「ランプの貴婦人」と呼ぶようになりました。また、「クリミアの天使」と呼ぶ者もいました。ナイチンゲールの働きにより、病院の死亡率は3分の2低下しました。

院内の衛生状態が大いに改善されたことに加えて、ナイチンゲールは、院内生活の質の改善につながる患者向けサービスの数々を始めました。ナイチンゲールは、「負傷兵のためのキッチン」を設け、そこでは特別な食事療法を必要とする患者にとって好ましい食事が調理されました。患者が清潔なシーツ類を使えるように、洗濯室をつくりました。このほか、ナイチンゲールは、患者が知的な刺激や娯楽を得られるように、教室や図書館をつくりました。クリミアで目の当たりにした現状をもとに、ナイチンゲールは自身の体験を分析し、劣悪な状況下で運営されている他の兵舎病院の医療衛生改革を提案する830ページにおよぶ報告書『英国陸軍の健康、効率および病院管理に関する諸問題に関する覚え書』を作成しました。この書籍が火付け役となり、1857年には軍の衛生状態に関する王立委員会(Royal Commission for the Health of the Army)が組織されるなど、陸軍省内の管理部門の総合的な再構築が実施されました。

ナイチンゲールはスクタリの病院に1年半、滞在しました。1856年夏、クリミア戦争が終結すると、ナイチンゲールはスクタリを去り、幼少時代の郷里、リーハーストへ戻りました。驚いたことに、ナイチンゲールは英雄のような扱いを受けて歓迎されましたが、謙虚な看護婦であったナイチンゲールは、英雄扱いされるのをなんとかして避けようとしました。ヴィクトリア女王は、ナイチンゲールの功績を賞して、「ナイチンゲールの宝石」として知られることになる刻印を施したブローチを授与し、イギリス政府はナイチンゲールに、賞金25万ドルを贈りました。

ナイチンゲールは、この大金を自らの使命をさらに推し進めるために使うことを決意しました。1860年、この基金をもとに聖トーマス病院を設立し、その院内に、ナイチンゲール看護学校を併設しました。ナイチンゲールは民衆の称賛の的となりました。ヒロイン、ナイチンゲールに敬意を表して、数々の詩、歌、演劇などの作品が創作されました。若い女性たちは、ナイチンゲールのようになりたいと志望するようになりました。ナイチンゲールと同じ道を歩みたいと、裕福な上流階級の子女でさえ、ナイチンゲール看護学校へ入学するようになりました。ナイチンゲールの功績により、看護という職業が上級階級の人々から冷やかな目でみられることはもはやなくなりました。実際のところ、名誉な職業としてみられるように変わってきたのです。

ナイチンゲールの晩年

スクタリの病院に勤務していた頃、ナイチンゲールは「クリミア熱」を罹患し、完治することがありませんでした。38歳になる頃には、ナイチンゲールは自宅から出られず、ベッドの上で過ごすようになり、余生も同様に過ごしました。ナイチンゲールの医療の改善と患者の苦しみを軽減したいという強い意思は変わることがなく、ナイチンゲールはベッドの上で仕事に励みました。

メイフェアに居住しながら、ナイチンゲールは医療衛生改革の権威および提唱者であり続け、ベッドにありながら政治家と面会し、著名な訪問者の数々を歓迎しました。1859年には、民間病院を適切に運営する方法について記した『病院覚え書』を出版しました。

アメリカ南北戦争中、ナイチンゲールは、野戦病院を最良の状態で運営する方法について、頻繁に相談を受けました。また、ナイチンゲール自身は一度もインドを訪れることはありませんでしたが、兵士と民間人の両方に関するインドの公衆衛生問題の権威としての務めを果たしました。

1908年、88歳にて、イギリス国王エドワード7世により有功勲章(メリット勲章)を授かりました。1910年5月、90歳の誕生日に際して、イギリス国王ジョージ5世から祝辞を受けました。

ナイチンゲールの死と功績

1910年8月、フローレンス・ナイチンゲールは病に罹りましたが、回復し気分も良いようであると報じられました。一週間後の1910年8月12日金曜日の夕方、数々の厄介な症状が現れました。ナイチンゲールは、その翌日の8月13日土曜日午後2時、ロンドンの自宅にて、人々の予想に反して突然この世を去りました。

イギリス国内にはナイチンゲールの栄誉を称えたいとする国民感情がありましたが、病気の予防および貧しい人々や苦しんでいる人々に対して安全で思いやりに満ちた看護を確実に行うことにその生涯を捧げたナイチンゲールは、生前、その性格から、自身の葬儀は静寂かつ謙虚さをもって執り行われるよう、望みを打ち明けていました。ナイチンゲールの最後の要望を尊重すべく、ナイチンゲールの遺族は国葬を断りました。「ランプの貴婦人」は、ウェストミンスター寺院にある一家の墓に埋葬されました。

ナイチンゲール看護学校があった場所にフローレンス・ナイチンゲール博物館があり、「クリミアの天使」の生涯やキャリアを記念する2000点以上の所蔵品が展示されています。今日、フローレンス・ナイチンゲールは、近代看護のパイオニアとして広く知られ、敬われています。

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